648 novel

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重力がなくなるんだってよ

 まだ物に重さがあった頃の話だ。

 おれは同じアパートに住む、白谷さんという女性と、ひょんなことから飲み友達になった。

 その夜も、白谷さんは灰色のトレーナーに、アジアっぽいカラフルなロングスカートを穿いていた。

 二人とも、シンハービールをラッパ飲みしながら、テレビを観ていた。

 くだらないお笑い番組にイチャモンを付けながら。

 部屋の真ん中の座卓には、細い果物ナイフが銀色に光っていた。

 絨毯には、枝豆が紙皿に載っていた。他には、黄金イカとポテトチップスもあった。

 ビーズクッションに身を沈めていた白谷さんは、マルボロメンソールに火を点けて、云った。

「ねえ、あの話、笑えるよね。重力なくなるってやつ。ありえなくない? あたし、日本酒を噴いたんだけど。きのう、パスタ茹でてるとき」

 料理をしながら酒を呑むな、とは云わず、おれはうなずいた。

「ああ、重力の話ですか。どうやら、本当みたいですよ。近頃、物が軽くなってるっていうのも、事実ですし」

「あのさ、《ですし》って言葉、止めてくれない? イライラするんだよね、それ」

「そうですか。でもね、敬語にしてると、回避しきれませんよ、たぶん」

「タメ語でいいよ」

「いや、あんたそれで先週、切れたじゃないですか。敬意を払えって」

 そこで白谷さんは体を起こすと、右腕を伸ばし、赤いガラス製の灰皿を引き寄せた。灰が落ちそうだから、少し急いでいるようだ。――しかし、その甲斐もなく、長い灰が絨毯に落ちた。

 大して慌てもせず、白谷さんはため息を吐いた。

 なんとなく、『待っている人間』だという感じがした。

 そうだ。

 白谷さんは失踪した婚約者の帰りを待っていた。

 やばい人たちに債権が周り、逃げるように失踪した彼氏のことを、四年間にわたって待ち続けていた。

 待っている人間の、疲れや痛みが、生活のはしばしに見えた。

 首に絡んだほつれ毛や、台所のかびたマグカップに……。

 ねえ、と云ってから、白谷さんはけらけらと笑い出した。

 ねえ、重力が全部なくなったら、タバコ吸えるの? 吸えるのか?

 知りませんよ。

 わかるでしょ、きみ、賢いから。

 わからないですよ。

 すると、白谷さんはテーブルの上の果物ナイフに手をのばした。

 なぜですか?

 と、おれは聞いた。

 だってさ、重さがなくなるのよ。凄くない?

 

おわり。