重力がなくなるんだってよ
まだ物に重さがあった頃の話だ。
おれは同じアパートに住む、白谷さんという女性と、ひょんなことから飲み友達になった。
その夜も、白谷さんは灰色のトレーナーに、アジアっぽいカラフルなロングスカートを穿いていた。
二人とも、シンハービールをラッパ飲みしながら、テレビを観ていた。
くだらないお笑い番組にイチャモンを付けながら。
部屋の真ん中の座卓には、細い果物ナイフが銀色に光っていた。
絨毯には、枝豆が紙皿に載っていた。他には、黄金イカとポテトチップスもあった。
ビーズクッションに身を沈めていた白谷さんは、マルボロメンソールに火を点けて、云った。
「ねえ、あの話、笑えるよね。重力なくなるってやつ。ありえなくない? あたし、日本酒を噴いたんだけど。きのう、パスタ茹でてるとき」
料理をしながら酒を呑むな、とは云わず、おれはうなずいた。
「ああ、重力の話ですか。どうやら、本当みたいですよ。近頃、物が軽くなってるっていうのも、事実ですし」
「あのさ、《ですし》って言葉、止めてくれない? イライラするんだよね、それ」
「そうですか。でもね、敬語にしてると、回避しきれませんよ、たぶん」
「タメ語でいいよ」
「いや、あんたそれで先週、切れたじゃないですか。敬意を払えって」
そこで白谷さんは体を起こすと、右腕を伸ばし、赤いガラス製の灰皿を引き寄せた。灰が落ちそうだから、少し急いでいるようだ。――しかし、その甲斐もなく、長い灰が絨毯に落ちた。
大して慌てもせず、白谷さんはため息を吐いた。
なんとなく、『待っている人間』だという感じがした。
そうだ。
白谷さんは失踪した婚約者の帰りを待っていた。
やばい人たちに債権が周り、逃げるように失踪した彼氏のことを、四年間にわたって待ち続けていた。
待っている人間の、疲れや痛みが、生活のはしばしに見えた。
首に絡んだほつれ毛や、台所のかびたマグカップに……。
ねえ、と云ってから、白谷さんはけらけらと笑い出した。
ねえ、重力が全部なくなったら、タバコ吸えるの? 吸えるのか?
知りませんよ。
わかるでしょ、きみ、賢いから。
わからないですよ。
すると、白谷さんはテーブルの上の果物ナイフに手をのばした。
なぜですか?
と、おれは聞いた。
だってさ、重さがなくなるのよ。凄くない?
おわり。